透明なセロファン(病気)

2011年11月26日(日曜日)
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「透明なセロファン(病気)」






 唇と唇を重ね合わせ、吸いあった。きみは本当にきみなのか。ほんとうにいるのか。輪郭があやふやだ。はっきりしない。肩を抱いているつもりだけれど、実感がない。僕に女は存在するのか。女の輪郭も、自分の輪郭もぼやけている。なにもかもが記憶の中の出来事のように触れられない。きみの手を握っているつもりだけれど、きみをちかくに感じない。僕はなんなんだ。きみはなんなんだ。もうどうでもいい。僕は人間ではないんだ。動物でもない。無機質なガラスで、均質なプラスチックで、ゴムなのかもしれない。飴のように、伸びたりとけたりするのか。


 
 きみのぬくもりが欲しい。心の溶解が欲しい。血管があり、血の流れる温かな交流が欲しい。けれど、きみを感じらない。僕はもうだめなのか。もうだめなのだろう。もうだめなんだ。
 けれど、安住もしない。だめなりに道は残されている。逃げ道がある。細いけれど、確実に続いていく、どこかにつながり、人間が回復し、底上げがなされる、明日を見せてくれるような、ひっかかりを残す逃げ道がきっとある。ぼくはしんじている。きみがふたたび登場し、僕も立ち現れる日を信じている。僕らが輝く日はきっと来る。その日をしんじている。だから、ぼやけた、手触りのない、失調の毎日に甘んじる。転換点を見据えている。現れなくても、それを夢想することで、ぼやけた毎日に甘んじる。この崩れた豆腐のような毎日を引き受け、ローテーションを組み、動かすことを受け入れ、心血を注ぎ、機械を回し続けるんだ。このシステムを回すことが、明日をつくるとしんじているから、今日もぼやけた毎日を動かすんだ。僕の歯車は、消えてもいい、なにもなくてもいい、かならず触れる日は来る。僕は触ることになる。かならず、感触を得る。